ある信者の独白

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 ゆらゆらと揺れる小さな灯火を眺めながら、息を一度止め、数秒して大きく息を吐いた。蝋燭はまだ三分の一しか溶けていないが、このままでは火の勢いが弱まって、完全に辺りが闇に包まれてしまうのも時間の問題だろう。
 倦怠感に包まれる全身をどうにか奮い立たせて、意識を手放さないように強く奥歯を噛む。今や四肢を動かすことさえままならず、壁に背を委ねて遠くを見据え、息をすることだけでも精一杯のことだった。
 少しでも気を緩ませると、ふと意識が飛ぶことがある。再び目覚めるまで何者にも襲われずに済んでいるのは、きっと神の加護である蝋燭の灯火が、己の身を魔の手から守ってくれているからだろう。
 もしくは自分に対する、神の最後の慈悲か。
「シレイリア様」
 己が信じている神の名を、小さく呟く。この小屋に逃げ込んでから、どれほどの時間が経ったのだろうか。壁にかけられている青い柱時計は秒針を刻んでいるが、その時刻が正しいかどうかは定かではない。
 本来の自分ならば、この小屋に足を運ぶようなことはしなかっただろう。昔からこの小屋には、魔物が住むという忌避すべき噂があるのだ。普段の思考であれば、中に入ることはおろか、近寄ることすらしなかっただろうに。
 その正常な判断を鈍らせるほど、あのときの自分は切迫した状態だったのだ。今でもたやすく脳裏に過ぎる。かつての友人が、かつての恩人が、自分を畏怖して責め立てるようなあの目を。
「魔女の奴隷め」
 呪いの言葉を自分に投げかけたのは、一体誰だっただろうか。友人だったかもしれないし、もしかすると自分が信頼をおいていた神父だったかもしれない。
 だがその一言を皮切りに、いくら弁明しようとも、もうあの村に自分の居場所はないのだと、一瞬にして理解したのだった。

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 昔から自分は内気で、人見知りする性格だった。誰かと言葉を交わそうにも、どのような話題をあげればいいかも分からず、自分が主張したい言葉すらも思いつかなかった。
 その性格は、物心つく前からそうだったのかもしれないし、何かをきっかけにしてそうなってしまったのかもしれない。幼子だった自分を捨てたらしい親が原因だと人は言うが、その親だという人物の顔や性格は微塵も記憶にないので、関係はないような気がしている。
 原因はどうであれ、自分には他人との上手な交流は不可能だろうと、早いうちから見切りをつけていた。同じ屋根の下で暮らす親代わりの酒場の主人とも、同居人の少女とも、一言二言交わす程度の交流である。
 けれども、口下手であることを不便だと感じたことはなかった。話せなければ仕事の手伝いに打ち込めばいいのだし、ぼんやりと景色を眺めて時間を潰すのも存外悪くはない。
 それに何より自分には、人と交流をはからずとも、知識の詰まった何冊もの本があった。一日の大半を読書に費やすことも折々ある。本は村の外からのみ仕入れることができる貴重な物のため、ほとんど同じ本ばかりを読んでいたが、それでも満足していた。
 元々この村の識字率はさほど高くなく、村共有の簡単な単語と、外との交流用にいくつかの言語を使うくらいで、日頃から本を嗜むことは物珍しい目で見られがちである。趣味で外の物資を収集している酒場の主人ですら、本の表紙や挿絵が気に入ったから取り入れたのであって、中身までは理解していないことが多い。
 ゆえに、教鞭を執る者は誰もいなかった。初めこそ文字の読解に手間取ることは多々あったが、じっくりと時間をかけて理解していけば、独学で読めないことはない。
 本の中の物語を読むことは、自分にとってようやく誰かとまともに交流できているような感覚がした。それは酷く一方的で、他者から見ればお世辞にも対話とも呼べない代物だったが、気持ちを言葉としてうまく表現できない自分としては、ようやく自分自身が何を感じ、何を伝えたいのかを明確に知るきっかけにもなった。
 だが己の心境に気付いたところで、外へと伝達する術は相変わらず持ち合わせていない。
 せっかく見つけた感情を持て余すことしかできず、再び何もなかった自分へと戻る方法しか、そのときは見つけることができないでいた。

-3-
 初めて神父様と言葉を交わしたのは、教会にあった聖書を興味本位で読んでいるときだった。読んでいたときは寓話の一つだと思っていたのだが、彼は首を横に振って、そこに記されていることは史実であると述べた。
 聖書には、神シレイリアのことが書かれている。この世界を構築し、我々人間をも創造して恵みを与えているのは神シレイリアであるという。神の容姿は地域によって、様々な形容として具象化されているが、どれもが人のような形を成しており、性別不詳の端整な顔立ちをしていた。
 自分たちの村では、神という存在は定義されていない。しいて近い存在を挙げるとするならば、夜の区の森に生息している、アドゥジキという魔の者くらいだろう。シレイリアのように人々を救済するのではなく、脅威と畏怖をばら撒くような存在だが。
 神父様は、それら魔の者に対して非常に興味深そうに話を尋ねてきた。村の者にとって魔の者は、常に生活と共にある存在だが、あまり触れたくはない話題でもあった。意識することさえ憚られていることもある。魔の者の名を呼ぶということは、災いを自ら呼び寄せているようなものだからだ。
 知識を文字として残さず口頭で伝承する習慣なので、村にある書籍にも詳細は語られていない。それゆえ、彼は夜の区に赴こうにも、魔の者に関する情報が圧倒的に足りないために身動きをとれないでいるらしい。なんの用があって足を運ぶのかは分からないが、村に馴染まない人間だからこそできる言動だ。
 彼は外からきた人間である。他にも数人、外からきた人間がいたような気がするが、あまり記憶にない。だが共通して、外の人間は夜の区を経由してこの村にやってくる。憔悴しきった顔つきをして、だ。
 再び外に帰るのかと尋ねたら、いずれはそうするつもりだと応じた。言葉尻に「あまり気は進まないけれど」とも。
 そういえば、彼が来る前にも二人ほど外の人間がやってきたが、彼女らもまた疲弊しきった顔で、まるで何かから逃げてきたかのように村に転がり込んできた気がする。最初は魔の者に襲われたのかと思っていたが、どうもそうではないみたいで、人に対して恐怖と警戒を向けていた。
 外の世界で、何か恐ろしいことが巻き起こっているのだろうか。外との経路や情報は半ば断絶したも同然の村なため、どこからも孤立した状態であった。唯一小さな交流ながらも外との外交を繋いでいる商人の親子でさえも、深い事情は知らないらしい。
 ふと芽生えた好奇心から、それとなく外の世界がどうなっているのかを尋ねてみた。神父様は一瞬、困惑したような様子で目をついと逸らしたが、わずかに逡巡して曖昧な笑みで言葉を返してきた。
「なんら大きな問題はないよ。ただ少し、世の中が混乱しているだけで、いずれは元に戻るさ」
 デオドール様さえ、異端児どもからお救いできれば。
 そう小さく呟いた神父様の瞳は、今思えばどこか異質な光を帯びていたような気がする。

-4-
 神は絶対的な存在で、唯一無二であり、そして誰よりも孤独である。たとえ何人ものが神を尊敬し、追従する信者が現れたとて、その神の心を本当の意味で解する理解者がいなければ、どれだけ多くの者に囲まれていようとも孤独であることに変わりはない。
 シレイリア教について分かる範囲で学習した結果、自分のうちに見出したのは神シレイリアに対する奇妙な親近感と憐みだった。とても公言できるような思考ではなく、なんとも愚劣なことだと自嘲しているが、自分はシレイリアと似た境遇であるのではないのかとも考えている。
 己は偉大で、全知全能で、敬うべき存在であると言いたいわけではない。ただ両者に共通しているのは、人々から意図的でないにしろ疎外され、真っ当に自身を理解してくれる者もおらず、一生涯孤独の身を進まねばならない立場であるのではないのかと感じているのだ。
 異なる点は自分は人であるため、少なくとも神よりは人との関わり合いをたやすく持てるということだろう。
 それでも。
 それでも自分は、人間として生きることに向いていないと思っていた。
 この頃からより一層と、人に対する交流の苦手意識が高まり、ついには恐怖や不安さえ感じ始めていた。一時期、戯れに彼らの言動を遠目から観察していたが、そこにはなんの学びの成果も得られず、ただただ自分と同じ体を持ちながらも、異質な存在を見ているような違和感を覚えていた。
 自分には他愛のない言葉の応酬もできなければ、意味のない取り繕った表情を作らねばならない真意も理解しがたい。
 奇妙な文化だと思った。書籍にはその行為こそが「普通」であると説かれていたが、それならば自分は到底普通にはなれそうにない。だがそう思いつつも、当たり前の行動をできないでいる自分を責め立てる声が、内側から断続的に響き続けていた。
 口数は以前にも増して減っていき、村の者との交流も絶えていった。向こう側から投げかけられれば応えはするものの、うまく言葉を紡げず一言二言呟き返す程度で、ついにはそれすらも怠惰になって首を動かすだけの返答に変じた。
 村の者たちは考えが読めない自分を不気味に思い、表面上の言葉を交わすだけの関係となっていった。親代わりである酒場の主人はいくらか気にかけてくれるが、同居人の少女は自分のことを、怪訝な眼差しで見る機会が多くなった。
 一人の時間が増えるごとに、知識の海に意識を浸す時間が多くなる。孤独になればなるほど、神シレイリアに強く惹かれてゆく。もうこの時から、足場は徐々に瓦解していたのかもしれない。
 シレイリアと共に歩み、シレイリアと共に息をする。それ以外の道は、もうどこにも残されていないのだ。

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 魔女は滅ぼさなければならない存在である。そう強く意識したのは、シレイリア教が魔女の手によって、窮地に追いやられた過去があることを、神父様からひっそりと教えられた時だった。
 元々シレイリア教は多くの地域で宣教されてはおらず、小さな地域の、さらに限られた区域の山奥にある建物を本拠地にして、まるで世から隠されるように存在していたらしい。創始者デオドールの方針によれば、無闇に押しつけがましく教え広めることを悪とし、個々でできるだけ内密に祈りを捧げることをよしとしていたそうだ。
 みな、隠遁者として慎み深く営んでいただけなのに、それを阻害したのは外部に広がる魔女の噂であった。原因不明の奇病があちこちに蔓延し、成す術もなく人々は死に絶えていって絶望に打ちひしがれた頃、誰かが叫んだのだ。
「これらは悪魔の所業である。悪魔と誓約を交わし、悪行の限りを尽くす呪われし魔女の仕業なり」と。
 火のない所に煙は立たぬ。一種の恐慌状態にあったとしても、何らかの不審な奇行があったからこそ、そのような言葉がついと口から飛び出したのだろうと推測している。
 疑心暗鬼に支配された人々は一斉に女どもを吊るし上げ、弾劾した。根も葉もない噂も立ったことだろう。尾ひれのついた魔女の噂は瞬く間に波のように広がり、そしてその矛先はデオドールにまでも向けられた。
 彼女は完全な潔白であると、神父様は述べた。外のことを知らない世間知らずな自分でも分かることだった。本物の魔女の芽を摘まない限りは、どこまでも飛び火が広がっていくことだろう。ゆえに、本物の魔女を見つけ出し、偽りとして炙り出された者たちを救わねばならない。
 シレイリア教は、外の世界では魔女が崇拝する邪教として世に晒された。内密に小さく活動していたことも裏目に出て、暴かれることを恐れて今までひた隠しにしていたのだと糾弾した。何もかもが誤解だったが、彼らには理解できまい。彼らもまた、知らずうちに魔女に洗脳された犠牲者なのだから。
 盲目になった彼らを憐れむと同時に、神シレイリアもまた気の毒であると感じた。誰もがシレイリアを絶対的な存在として崇めるか、唾棄すべき忌まわしい存在として見据えるかで、シレイリアの意思を慮ろうとはしていない。すべて己のエゴを押し付けているだけに過ぎないのだ。
 邪神であろうがなんであろうが、自分は一人の理解者として、何者でもない同等の位置として接していくつもりである。そうすることがシレイリアにとっても、何より自分にとっても、有益な関係であると考えていた。

 後になって考えてみると、それもまた、ただ自分の姿を重ねていただけの卑しいエゴだったのかもしれない。

-6-
 自身の村にも魔女の手が伸びていたことが発覚したのは、それから幾日か経ったことである。外からきた姉弟の姉が魔女であると、神父様の通達により知らされた。白髪の珍しい姉弟だったと記憶している。
 昔から、彼女は事あるごとに神父様に対して不審な目を向けていた。朝の区にある教会もあまり好意的に見ておらず、周期的に行われている朗読会にも一度も顔を出したことはなかった。
 その彼女が、魔女であった。最後まで魔女ではないと強情に潔白を告訴し、芯の持った目で村人たちを睨みつけていた。
 何も証拠を持たず、彼女を摘発したわけではないらしい。彼女が奇怪な魔法を扱ったという目撃者もおり、彼女が調合した薬を服用したことで、体調不良に陥った者もいるという。現に彼女を魔女であると告発した当日も、彼女の弟は薬の効果によって寝込んでいた。
 皆一様に口を閉ざし、抗議する声や非難する声を上げなかった。魔の者に対して接するように、ただ静かに深く干渉せず、物事が滞りなく進行するように見送っていた。
 その対応は過ちではない。今まで災禍を及ぼす魔の者には、そうやって巧くやり過ごしてきたのだ。事情も知らずに深く関与しようとするのは、浅薄で愚劣な行為である。そもそも外の世界にいる魔女という素性に対して、我々はまったく無知なのだ。外の者の事情は、外の者が取り計らうことが正しいことなのである。
 だからこそ事情を知った彼女の弟が、どうして自ら危険を冒してまで詰問したのかが解せなかった。神父様が行ったことは非道に見えるかもしれないが、これ以上の被害をもたらさないための処置でもあるのだ。彼が喚いて掻き乱したところで、彼女が魔女である事実を覆すことなどできないというのに。
 彼にとっては非情で、酷な仕打ちであろう。だがこういった事態でこそ、己の情を制御して、冷静に物事を見極めて判断しなければならない。何が正しいことで、何が間違っていることなのかを。己の感情に支配されて、成すがままに野放しにすることこそ、更なる悲劇を呼び寄せることになるのだから。
 けれど一連の流れを見ていた自分は、どこか他人事のように達観していた。遠くのほうからにじり寄るように、鈍色の厚い雲が、アドゥジキの体躯が、この村一帯を覆うように広がっていたのを今でも覚えている。
 神シレイリアは報復しているのだ。邪悪な存在として価値を貶め、奈落の底へと放逐した愚かな人間どもに。
 底知れぬ不安の震えが、足元から駆け上ってくる。神シレイリアは生きている。偶像でもなく、虚像でもなく、我々が目に見えていないだけで、確かにそこに存在しており、こちらをじっと見つめているのだ。
 不正を犯す者を見とがめ、罰を下すために。
 人間の愚かさを、知らしめるために。

-7-
 それ以来、時折なにかの視線を感じるようになった。家でじっと本を読んでいるときも、椅子に座って祈りを捧げているときも、ふとした瞬間に何者かがこちらを見ている気配を感じ取るのだ。
 すぐに気配があった先へ視線を向けるが、どれもが杞憂でそこに何かがいたことはなかった。自分の気にしすぎだろうと思い直すのだが、どうにも不安を拭えずにいる。
 魔女が神父様の手により処罰されても、村に平穏な空気が戻ることはなかった。誰もが何かに怯えて肩を竦め、表情にもかげりが見える。
 まるで村一帯に、毒の霧が覆っているようだった。粘ついた空気が身に纏わりつき、じっとりとした嫌な汗が流れ落ちる。誰もが静かで、けれど内に暴れる何かを抑えつけるように、身振り手振りにぎこちなさが残っていた。
 この時から、神父様から夜の区への用事をよく頼まれるようになった。あまり気乗りはしなかったのだが、近場で済ませる簡単な用事な上に断る理由もなかったため、すべて頷いて引き受けていた。なんのためにこんなことをするのかはわからなかったが、神父様なりの深い事情があるのだろう。
 それに少し、朝の区から身を離したかった気持ちがわずかにある。神の恵みが天より降り注ぐ区画。今まで多くの時間を朝の区で費やしてきたが、その場所にいる自分がなんだか場違いで、どこか負い目を感じるようになっていた。
 自分はちっとも清くはない。村のみんなのように事態に深刻さを感じるでもなく、魔女の弟のように誰かのために涙を流すことさえしない。自分の意識がどこか遠くから見下ろしているようで、どんなことに対しても淡白で、いつでも傍観する立場にいた。
 祈祷だって、己の欲望を吐き出すこともしなければ、他人への幸福を願ったこともない。ただじっと目をつぶり、両手を組んで何も考えず、窓の外から微かに聴こえる水の流れに耳をそばだてるだけである。
 村の者や神父様は自分のことを「生真面目で敬虔である」と評したが、自分にそのような立派な心など芽生えてもいない。勝手に自分をシレイリアに近しい存在であると思い込み、感情を抑制できずに心情を深く推察できない者を心中で嘲笑し、自分は遥か高見にいるのだと勘違いしていたのだ。
 他の者が、己の才を理解できないから孤独なのではない。己自身が交流を怠り、なんの努力もせずに理解を得ようと甘い考えでいたからずっと独りだったのだ。交流を諦めたのではない。口下手だからと弁解して、ただ傷付くのを恐れて逃げ続けていただけだった。
 泥で覆いつくした心情を、きっとシレイリアは見透かしている。視線を感じるのも、もしかすると他の者も薄々とそのことに気が付いてきているからかもしれない。
 けれど、どうにもしようがないことだ。今さら何をすればいい。確かに本音で語り合ったことはないが、大きな嘘をついてきたこともない。交流を怠ったのも事実であるが、要さずとも苦とならず、それで日常に隔たりができたこともなかったのだ。
 それとも、これもまた詭弁になってしまうのだろうか。シレイリアの御前では、ただの戯言に過ぎないであろうか。
 知らず知らずのうちに、自分が異質であることを酷く恐れていた。親もおらず、友と呼ぶべき親しい者もおらず、誰とも深い交流を持とうとしない。黙したままであれば、いらぬ誤解や良からぬ推測もされてしまうだろうに、驚くほどに自身でもそのことに関する危機感をあいにく持ち合わせていなかった。
 このまま事態を重く捉えず、なんの対処も施さずにいれば、近いうちに自分も異端児として疎外されるのではないか。
 ――あの白い魔女のように。
 その一抹の不安だけを頼りに、再び朝の区へと足を運んで、己と村との関係をなんとか繋ぎ止めている。
 たとえ自分の心が欺瞞に満ち溢れていようとも、形だけでもいいから誰かと空間を共有していたかった。

-8-
 あの恐ろしい言葉を初めに告げたのは誰だっただろうか。過去の記憶は霞がかっていて、よく覚えていない。
 気が付いたら、教会の奥深くにある檻の中に入れられていた。どこかすぐ近くで、水の流れる音が聞こえてくる。遠くのほうで、誰かの話し声も。
 はじめ、なぜ自分がこのような場所にいるのかが分からなかった。辺りを見回してみたが、少しもここに至るまでの経緯を思い出せないでいた。
 当惑したまま考えあぐねていると、神父様が姿を現した。その顔は普段通りで、穏和な微笑を湛えていたのを今でも色濃く覚えている。檻に歩み寄り、会釈した後の違和感の混じったあの言葉も。
「きみは、魔女の洗礼を受けている」
 それからのことは断片的にしか記憶していない。淡々と、日常会話を紡ぐように魔女であることを追及されたような気がする。まるで教え諭すように、慰めるように、お前は魔女の奴隷であると告げられた。
 言葉の意味をうまく捉えることができなかった。ただ音としてそこにあるだけで、誰かに向けられたものではないように感じていた。
「だれが、どうしたんですか」
 自分でもおかしな問いかけだと思いながらも、神父様が何を言おうとしているのかを、改めて確認しようとした。彼は微塵も変わらぬ表情で、同じ語調で応える。
「きみは、魔女なんだよ」
「きみって、誰ですか」
 一呼吸の間、沈黙が流れる。彼は呆れ返ったように仰々しい溜息をつくと、こちらに背を向けた。
「きみが受け入れたくないならば、いくらでも否定するがいいさ」
 棘のある冷たい語調で、突き放すかのように言葉は吐き出される。どうやら機嫌を損ねたらしいのだが、自分でも何がどうなって自分が魔女として疑われているのかが分からない。
 神父様は別の人間と間違えて、自分を追及しているのではないのか。その考えに至ったが、なんとか弁解したくても、どう言葉を返せばいいかすら思いつかない。
 自分の沈黙をどう解釈したのか分からないが、神父様は肩越しに自分を一瞥すると、ゆっくりと口を開いた。
「黙っていれば、自分の都合の良いように事態が運ばれるとでも思っているのか」
 抑揚のない声が淡々と、空間に響く。その言葉は紛れもなく、直接自分に向けて語り掛けられていた。それでもどこか、事態を遠くのほうで認識している自分がいる。
「誠実だからと、さも自分が正しいと思い込んでるような人間ほど、性質の悪いものはない」
 毒づくように、軽蔑するように、確かにその感情は自分に向けられていた。
「私はお前みたいな人間が、一番嫌いなんだよ」
 遠くのほうで、鐘が鳴る音が聴こえる。

-9-
 シレイリア様。
 我らが神、シレイリア様。
 これは罰なのでしょうか。私があなたと対等な位置にいると自惚れ、他者との交流を嘲った愚かな行為に対する報いなのでしょうか。
 埃をかぶった長机に肘をついて手を組み、重くなった頭を載せる。ゆっくりと鼻から息を吸って、胃に滞留している淀んだ空気を吐き出した。
 蝋燭の火は蛇の舌のようにか細く、頼りなくゆらゆらと揺れながら辺りをわずかに照らしている。時間が経つにつれて空気が薄くなっているようで、動悸が激しく、組んだ手も震えていた。
 遠くに響き渡る鐘の音を聴きながら、自分はあの場から逃げ出して、ここまで辿り着いた。どのような手段を用いて逃避したのかはおぼろげであったが、どうやら鍵束を盗んできたということを、そばに散乱している無数の鍵を見て推測できた。
 恐ろしかった。あの村にいれば、どこに隠れていても必ず自分を炙り出して、なぶり殺されると思った。優しかった神父様も、親として育ててくれた酒場の主も、感情の読み取れなくなった自分の存在を、異質であると感じていることだろう。
 どこにも味方などいないのだ。外に逃げ延びたとして、魔女の手先と記された今、どこへ行っても自分を助けてくれる存在などいやしない。
 皮肉にもこのような状況になって、ようやく自分が誰かの手を借りて生きていたことに気付いた。あの頃のみんなは自分に対してとても寛容に接してくれていた。一度も見放すことなく、優しく声をかけてくれていたのだ。
 その厚意を裏切って、自ら突き放して距離を置いていたのは他ならぬ自分の意思である。なぜ勘ぐってしまったのだろう。あの頃からすでに、自分の内側で魔女の種が芽吹いていたのかもしれない。
 秒針を刻む音が、頭上から一定の間隔で降ってくる。壁に掛けられた青い柱時計は、九時三十五分を示していた。この小屋に逃げ込んでたったの十分そこらであったが、とてつもなく長い時間を過ごしているように錯覚させられる。
 自分はこれからどうすればいいのだろうか。回らない頭を叩き起こしてなんとか動かそうと試みるが、思考は停滞したまま何一つ答えを生み出さない。
 蝋燭の明かりは刻一刻と小さくなり、このままでは掻き消されて闇に覆われてしまうだろう。闇に食われてしまえば最後、その体は意識あるまま魔の者の手によって蝕まれていき、己の心身ともに魔の者と化してしまう。
「いやだ」
 小さく頭を振る。魔の者になんてなりたくない。自分はただの人間だ。人間になり切れなくとも、人間として最期を全うしたい。
 村に帰ることも考えてみたが、きっと魔女として連れていかれ、魔女として死ぬことだろう。ここから外に出ても、このままずっと留まっていても、自分は人間として生きることも、死ぬこともできない。
「魔女になるのも嫌だ。魔の者に堕ちるのも嫌だ」
 ふと頭を上げると、遠くの梁からぶら下がっている長い縄が目に入った。
 ――それならば、いっそのこと。
 脳裏に浮かんだその単語は、聖書では最大の裏切りの行為とされていた。罪深く、再び人間として転生することはできないとも書かれている。
 けれどもう、逃げ道はそこしかないのだ。自分が最期まで、人間として生き、人間として死ぬことができるのは、その一つの最悪な手段とも指差される行為でしか、今の自分には選択肢がないのだ。
 蝋燭の炎は小指ほどの大きさまで縮まっている。もう数分ももたないだろう。躊躇している暇などない。おもむろに立ち上がり、静かに頭上から垂れている縄の元へと向かう。
 まるでお膳立てのように、縄の真下には小さな丸椅子があった。一本の縄を円形の空間を作るよう固く結び、椅子の上に足を乗せる。ちょうど目線の高さに縄の空洞がぶら下がっていた。
 縄を掴んで引っ張ってみたが、たやすく解けることはなく、軋みを上げつつも根元は頑丈に固定されていた。大きく一度深呼吸して、ゆっくりと輪の中へ首を差し出してみる。視線の先の空間は光が届かず、真っ黒な闇が横たわっていた。
 しにたくない。
 首をわずかに通しただけで、一瞬のうちに死への恐怖が全身を駆け巡った。
 こんなはずじゃなかった。このような結果を望んでいたわけでもなかった。ただ村のみんなと仲良くしたかっただけだ。不器用なりにも言葉を交わして、一緒に楽しんで生きることができたのなら、どれほど良かっただろうか。
 視界が歪む。汗なのか涙なのか分からない雫が頬を伝い、顎から次々と床に向かって滴り落ちていく。数滴が足元の靴に当たり、静かに弾け飛んだ。
 しにたくない。
 確固たる己の強い意思だった。自分は魔女ではない。それは自分がよく知っていることだ。分かっているからと他者への弁解を省いてしまったのが、いけなかったのだ。沈黙は相手の都合の良いように捉えられて、ますます誤解が深まっていくことだろう。
 濡れ衣だと証明するものは何もないが、懸命に訴えれば少しは理解してくれるかもしれない。また元のような生活に戻れるかもしれない。実行してみなければ、結果など分からないはずだ。
 ただ平穏に暮らしていたかった。
 ただ穏やかに、みんなと一緒に生活していたかっただけだ。
 鼓動が早鐘を打っている。空気も薄くなり、酸素を求めて呼吸の回数が多くなる。気が付いたら蝋燭の灯火はとっくに消えていた。魔の者が奥から這い寄ってきている。
 しにたくない。
 ふと、視界の端を何かが横切った。闇に慣れた目でも、それがなんなのかは捉え切れなかった。だがそれは禍々しい存在であることを、本能が警鐘を鳴らして知らせていた。
 この小屋には、魔物が住むという。魔の者とは異なって、愉悦のために率先して人を食い殺し、魂までもを食らって周囲に害を撒き散らす存在。その魔物が帰ってきたのだ。己の巣窟に獲物がいると知り、嬉々とした目で見ているのだ。
 足元が大きく揺らめいた。体重の軸がバランスを崩し、前のめりに体が倒れる。首にかかっていた縄が喉を瞬時に締め付けた。肺に溜まった空気が、逃げるように口から零れ落ちる。
 誰かが見ていた。この一連の緩慢とした流れを、自分の目前で、頭を上げてじっと見つめていた。
 シレイリア様。
 ああ、シレイリア様。
 先に逝く私を、どうかお許しください。

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